生きる歓び

生きる歓び (新潮文庫)

生きる歓び (新潮文庫)

だいたい、捨てられたり親からはぐれてしまった子猫なんて、その同じ時刻に日本の中だけでも何百匹といただろう。こうして私が家の中でこんなことを書いている時刻にも、拾われなければ死んでゆくしかない猫が沢山いる。保健所に行けば処分されるのを待っている猫も犬もいる。アフリカでもアジアでも中南米でも飢えて死ぬのを待っている子どもたちがたくさんいる。だから、私がいまここで立ち去ってしまっても、世界全体で起こっている生き死には何も関係がない、と言って、さっさと立ち去ることもできるし、そんな子猫ごときにかかずらっているヒマがあったら、世界の難民救済の募金にでも行った方がいい―というのは一見正しい理屈のように見えるかもしれないけれど、実は全然正しくない。
中略
人間というのは、自分が立ち合って、現実に目で見たことを基盤にして思考するように出来ているからだ。人間の思考はもともと「世界」というような抽象ではなくて目の前にある事態に対処するように発達したからで、純粋な思考の力なんてたかが知れていてすぐに限界につきあたる。人間の思考力を推し進めるのは、自分が立ち合っている現実の全体から受け止めた感情の力なのだ。

心は微妙なのではなくて、それぞれはけっこう単純なものが、いっぱいに詰まって錯綜している。

「生命」にとって「生きる」ことはそのまま「歓び」であり「善」なのだ。